小泉八雲の没後100年記念の掲示  
                 「ヘルンの見た美保関」  
                           そのころを知る  
                   
                                                                                       〔画像クリック ⇒「美保関」写真集〕  
       1891年(明治24年)8月  
             美保関の生活風習を題材にした、紀行文が世界へ向けて発信された。  
                 その一節に、この地 "島屋" の項があった。  
                 作者、小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn 1850-06-27〜1904-09-26)通称 "へるん" は、  
                     ここに宿をとり、紀行エッセイを書いた。  
                   ("日本瞥見記"のちに"日本の面影"として編纂された)  
  
                  "美保の関" の一節には次のように書かれている。  
  
                                        
                                                                             『日本瞥見記』平井呈一<訳>より

絵に描いたような美しい町。”美保関 ” 永遠にこの美しさを保ち続けたい。

         2003/02/01 『考現庵』 「小泉八雲来関記念文庫(関連文書集)」 「小泉八雲来関記念公園」 小泉八雲 著作集 Reading_Logs ┌─────────────────┐ │小泉八雲と美保関 1891年(明治24年)│ └─────────────────┘ 詳述年表 ラフカディオ・ハーン伝より(坂東浩司著 英潮社1998年3月31初版発行) 板東浩司研究室 8月25日(火) 美保関に向かう。 町はずれに近い旅館「島屋」に投宿する。美保神社に参詣したり、水泳を楽しんだり して過ごす。 「小泉節子(1868-02-04〜1932-02-18) 関連文書集に"思い出の記"等-全文リンク有り」 8月27日(木) チェンバレン宛手紙に、美保関滞在の様子を伝え、日本人の幸せな暮らしぶりに照らして、 西洋文化がはたして道徳的にも精神的にも優れたものであるか疑問に思われると書く。

                      
                    ●ラフカディオ・ハーンとチェンバレン (Basil Hall Chamberlain 1850-1935) ●  
                         同年(1850年)生まれの二人であるが、ハーンの来日(1890年)はチェンバレンより17年遅く、  
                      チェンバレンは既に帝国大学教授として名声を博していた。二人の関係は、ハーン来日直後に  
                      チェンバレンが高等商業学校での英語教師の職を斡旋したことにより始まり、当初は最高の親友  
                      ともいえる協力関係が続く。しかし、彼らの日本観の相違は時とともに深まってゆき、ハーンの  
                      日本での初めての著作「見知らぬ日本の面影」はチェンバレンに献呈されていたものの、チェン  
                      バレンはこれを酷評する。その後国家神道や教育勅語など多くの問題について両者の論争は激し  
                      くなり訣別にいたる。あくまで「作家」として主観的に日本を愛したハーンと、客観的な「学者」  
                      として日本を研究したチェンバレン。日本の国籍を得て日本人として没したハーンと、コスモポリ  
                      タンとしてジュネーブで生涯を終えたチェンバレン。両者の比較研究はそれ自体が比較文化研究の  
                      永遠のテーマともいえるであろう。彼らの間には334通にも上る書簡が残されている。  
                        ┌───────────────────────────────────────────┐  
                        │・・・ハーンが文豪として麗筆を以って多少美化された日本を海外に紹介されたに対しまして、   │  
                        │チェンバレン先生は学者として、日本の事物を客観的に、事実有りの侭を凡ゆる方面から研究  │  
                        │されまして、或いは言語、文学、宗教、歴史、風俗、色々な方面に於て何れもパイオニアとし  │  
                        │ての業績を遺された。−−−市河三喜                                                    │  
                        └───────────────────────────────────────────┘  
                                           B. H. チェンバレン著作集 http://www.aplink.jp/synapse/4-931444-10-5.htmより  
                                              ハーン書簡 チェンバレン宛 (写真+原文) 
                        
8月29日(土)快晴。 午後、美保関から小蒸気船で中海を渡り(約二時間)、夕方頃、帰松する。 西田千太郎が日中の不在中に訪れる。帰宅すると、チェンバレンから3通の手紙 が届いている。大社から送った手紙、版画、書物に対する礼及びそれについての 所見を述べたもの(箱根、13日付け)「日本旅行案内」のために山陰地方の旅行 経路についての情報提供の依頼、さらに日本人に対する見方が絶えず動揺し、 振子のように揺れ動いていることや、ハーンが送付した品々をイギリスに持参して、 タイラー博士(イギリスの人類学者、オックスフォード大学博物館保管長 源氏物語の英訳で知られるロイヤル・タイラー博士) に説明する旨を記したもの(箱根19日付)・・・・・ ┏┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┓ ┫美保関には三回訪れることになる。 ┣ ┫ 一回目 1891年(明治24年)8月25日〜8月29日 ┣ ┫ 二回目 1892年(明治25年)8月25日〜9月上旬まで滞在(9月4日まで) ┣ ┫ 三回目 1896年(明治29年)7月15日から8月上旬まで滞在。(8月7日〜8日まで)┣ ┫ 「知られざる日本の面影」1894年第10章「美保関にて」は ┣ ┫ 一回目と二回目の滞在体験をまとめたものである。 ┣ ┗┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┛ ┌───────────────────────┐ │二回目来関記より 1892年(明治25年) ハーン43歳│ └───────────────────────┘  八月、赴任地熊本より、博多、神戸、京都、奈良、門司、境、隠岐、美保の関、福山、尾道に遊ぶ。 8月10日から24日までの隠岐旅行を終え、24日に境の香川旅館に宿泊。
      8月25日(木)  
                    美保関(現・島根県八束郡美保関町)に渡り、門脇旅館(屋号「島屋」)に投宿する。  
                   (9月4日まで滞在)。西田千太郎宛手紙に、美保関に来るときに、太田姻草店(天神町)で葉巻  
                    タバコ五十本ほどを買って来てほしいと頼む。  
  
                    髪結いの恩田カネ(島屋の遠縁者)を宿に呼んで、セツの髪結いをしてもらう。  
                    以後、島屋に滞在するごとにセツの髪結いは彼女に頼む。祝儀として一円を与える。  
                    当時の結い賃は十四、十五銭)  
  西田千太郎:松江中学教頭  
  新士族(旧足軽)で中学を退き、進学をあきらめねばならない  
  家庭事情と生来の病弱ながら、有り余る才能の持ち主。  
  検定で資格をとり、母校の教師となり、29歳で教頭となる。  
      8月26日(金)  
                    快晴、酷暑。午後、福間旅館に宿を定めた西田千太郎を自分たちの客として門脇旅館に招くため、船頭に  
                    書状を持たせて迎えにやる。西田がハーンに頼まれていた葉巻タバコと荒川重之助より託された気楽坊の  
                    模型人形を持参する。(29日午前中まで同宿する)  
          
8月27日(土) 快晴、酷暑。西田千太郎と小舟で海水浴場に行く。 (加鼻「納涼亭」) 8月28日(日) 快晴、酷暑。西田千太郎と宿の裏手の海で水泳を楽しむ。 8月29日(月) 快晴、酷暑。西田千太郎が松江に帰る。西田に隠岐土産のスルメ二束、馬蹄石貝細工品を贈る。
      8月30日(火)  
                    見世物小屋を見物する。午後、水泳をし熊谷正義に水中で仰向けになる方法を教える。  
                    午後遅く、境丸で西田千太郎より家鴨の卵三十個余りと手紙、それに「朝日新聞」一部  
                    が届けられる。夜、宿屋に床屋を呼んで散髪する。床屋から美保関大明神が卵を嫌う迷信  
                    を揶揄する愉快な話を聞く。  
       (西田千太郎日記より)  
        8月30日(快晴、苦熱) 先ニヘルン氏三保関ニテ食物ニ  
      不便ヲ感ゼシヲ以テ、あひるノ卵ト称シテ家鴨又ハくきん  
      ノ玉子ヲ送ランコトヲ約セシガ、美保関ニ鶏卵ヲ贈ルコト  
      ハ神怒ノ程恐シク且旅宿主人之ヲ忌ムベシトテ家内中ニ異  
      論者ヲ生ジ、由テ車夫ニ命ジテ真ノ家鴨卵買集メシメント  
      セシガ、揖屋ハ三保関ト等シク明神様ニ対シテ鶏ヲ養ハザ  
      ル代ハリニ盛ニ家鴨を飼フ地ナレバ、同地二就テ之ヲ求ム  
      ルヲ便宜トスト聞キ、由テ同処、出雲郷及意東ニ之ヲ蒐集  
      シテ三十余箇ヲ得、之ヲ三保関ナルヘルン氏ニ送ル。・・  
      ・・・  
8月31日(水) 西田千太郎宛手紙に、たまごを送ってくれた礼と、前日床屋から聞いた美保関大明神の卵 の迷信についての話のことを書く。メイスン宛手紙に、馬関(現、下関)行きの船もう四日 待たなければならず、別段何もすることがないので、水泳をしたり、巫女舞をみたり、芸者 の歌を聴いたりして過ごしていること、前日、動物の見世物が美保関に来たとき、遠雷の轟 きとともに一陣の烈風が吹き、一座のなかに「件」がいたため、美保神社の神の怒りに触れ たとして神主にすぐ立ち退きを命ぜられたこと、鶏や鶏卵を忌み嫌うのは美保関だけでなく 揖屋(意宇郡揖屋村、現・八束郡東出雲町揖屋)でも同じ風習があり、また同じ事代主神を 崇拝する安来(現・安来市)は、玉子や鶏で有名で、住民たちは神に仕える最上の道は神に 仇なす者どもを殺して貪り食うことだと言っていること、隠岐の宿屋で働いていた士族の少年 の面倒を見ようと連れてきたことを知らせる。(少年の名は、熊谷正義) 9月1日(木) メイスン宛手紙に、美保関は「古事記」にも言及されている歴史的に由緒ある土地で、 「日本旅行案内」の説明より価値のあるところだとして、美保神社や関の四本松のことを知 らせる。 9月2日(金) セツとともに美保神社に行き、神官たちに丁重に遇され、巫女舞を見る。 西田千太郎宛手紙に、美保神社で巫女舞を見たこと、馬関行きの三河丸で帰途つくことを知 らせる。メイスン宛手紙に、境の港の水深は前回知らせたより浅いと分かったこと。美保関 の 鶏と卵の迷信は九州の天神のものより古い伝説に基づいていると思われることについて書く。 9月3日(土)か 4日 境に渡る。香川旅館(栄町)に六日朝まで滞在し、三河丸の寄港を待つ。
『日本瞥見記』 1894年12月7日付 西田千太郎への手紙 http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/hea-01.htm ラフカディオ・ハーン(1850-1904)の来日第一作で2巻からなる。 表紙が竹のデザインで出来ているのでハーンはこれを竹の本と呼んだ。1894(明治27)年にハウトン・ミフリン社から出版された本書は来日直後の最も鋭敏、最も新鮮な印象、観察を迫力に富む簡潔な文体、時に絢爛たる表現をもって描写している点で、後続の他の著書にも見られない特徴がある。ハーンの日本陶酔時代の作品として、明るく、たのしく、すべてが美しく見えた松江時代の記述が大半を占めているが、内容を分類すると松江時代に関するもの12章、日本人の生活、習慣に関する随筆紀行6章、熊本時代に関するもの2章等で、「盆踊」、「神々の首都松江」、「杵築−日本最古の社殿」(注:出雲大社参拝記)、「英語教師の日記から」、「日本人の微笑」、「さようなら」(注:尋常中学校生徒との別れのことば) などが名章となっている。 1894年12月7日付の手紙で西田千太郎(尋常中学校教頭)に、この著書が発行後、すでに1,800部売れたとその結果を喜んで知らせている。 展示目録 『二人の偉大な日本紹介者 ハーンとモラエス』 より
┌─────────────────┐ │三回目来関記より 1896年(明治29年)│ └─────────────────┘ この時は、明治26年生まれの、長男一雄と共に訪れる。 ヘルンへは、東京大學への赴任の交渉が交わされていた。 7月15日(水) 半晴れ。西田千太郎が来訪。家族三人で大橋埠頭から汽船で三保関に向かう。 島屋旅館路に滞在する。美保関滞在中に近郊の景勝地加鼻に出かけ、「納涼亭」で数日過ごす。 七月中旬 ヘンドリック宛返書に、 出雲の漁村に滞在し、毎日水泳を楽しんでいると知らせ、ヘンドリックの機知に富んだ観察力のすぐれた 手紙を読むと、文学の筆を執らないのが惜しまれると書く。  ●ヘンドリック エルウッド Ellwood Hendric (1861-1930)● ニューヨーク州オールバニーに生まれる。1877年ドイツに渡りチュービング大學で 化学を学び、故郷で総合有機科学の工場を設立するが失敗した。 1889年10月19日にニューヨークでヘルンと初めて知り合った頃は、ロンドンのコマ ーシャル・ユニオン保険会社の特別代理人をつとめていた。 1897年に結婚、義理の兄弟たちとともにポメロイ・ブラザース社を設立した。 その後、コロンビア大学で化学の講師、チャンドラー化学博物館の館長を務め「み んなの化学」(ハーバー社、1917年)など化学の教科書や入門、概説書を書いた。 ハーンからは来日後も親密な手紙を受け取り、友情は生涯続いた。 特に東京に移住してからのハーンにとってはもっとも大切な手紙を書く相手となった。 ハーンの内面を知るための貴重な資料となっている。 (銭本健二) 7月18日(土) 西田千太郎宛手紙に、西田の病状を見舞うとともに、体調が良ければ来遊してほしいと書く。 この頃、浅井豊久や堀市郎が訪ねてきて、数日過ごす。 (浅井豊久:松江尋常中学校教授、任期28年5月〜30年4月まで。東京出身、 のちに浜松尋常中学校 に転勤し、八雲との交際が深まる) 堀市郎:松江の写真師。のちに東京に出て、江木写真館で修行中に、ときおりハーン宅へ 遊びに来ることになる 浅井が一雄を芸者置屋の女たちに預けっぱなしにして八雲を狼狽させる。 一雄 1893年11月17日 午前一時誕生。明治26年。 7月19日(日) 朝日新聞に「出雲の神様にお礼参り 小泉八雲夫婦」と題して、八雲の動静を伝える記事か載る。 「原文」 「・・・然るに氏は歴史的古国なる出雲の状況を記述して米国出版社に送り 之を刊行せしめ又米国大洋月報に出雲大社の沿革を掲げたる事あり出雲とは 離るべからざる因縁あり遂に小泉家の養子となり夫の八雲立つの古歌に因みて さては小泉八雲と称せるなりとぞ然ればこの良縁を結び得て帝国臣民となるに に至りしも全く出雲大社神霊の導きかせ玉ふ所なりとなし其御礼参りとして 此程松江市に抵りしといふ開けゆく世の今日は外国人の引き合わせに迄も手の かかるとは出雲の神さまも亦中多事なり・・・・」
<当時の面影を知る> 明治24年、この当時"美保関"(又は三保関)は、日本海の外海に近い天然の良港 として、北海道・北陸方面から上方への帆船の寄港地として栄えていた。美保関には 、事代主命を御祭神とする美保神社があり、漁業の祖神、海上の守護神と仰ぎ、水産 海運の御霊験は広く知られていた。 美保関港の海岸は、この当時から2度に渡り大きな変革があったようだ。 ヘルンの描写では。「人家の裏手からは、石段が深い水ぎわまでついていて、どこの家 の 裏口にも舟がつないである。」 これは、私が知る古い海岸通りがまだ付いていない ころである。先人に聞いた話では、民家は海からの石垣の上に建っていたところがほと んどのようであった。 美保関は、山間の谷毎に5つの小路(地区)に分けられているが、そのころも各小路 の浜には、船を据える(陸に揚げる)場所が設けられていた。これらの浜は、水際近辺 から水深1メートル程度のところまでは、石垣状になっていて、いつも小舟が陸揚げさ れていた。 (昔の小舟は、ペンキが塗ってなかったので陸に据えることが、頻繁であった。) 現在のようになったのは、日本の港がそうであったように、自動車文化が押し寄せて 来た昭和30年代以降の埋め立てであった。 「・・・、通りらしい通りといっては、ほんの一本あるきりしか余地がない。 しかも その通りの狭いことは、こっちの浜がわの家の二階から、むこうの山がわ の家の二階 へぴょいと飛び越せそうなくらいである。」 このような通りでは、自動車も入れない! その当時は、美保関港に至る、島根半島南側の松江方面からの道路もまだ未開発 で、交通の手段は、唯一「蒸気船」であった。 私の幼いころには、まだ当時の面影があった。交通の主なものは「合同汽船」朝には、 境からの「売り子のおばさん」達が、野菜・穀類・肉などの食料品を中心のにぎやかな 朝市が立つ。食品はもとより、予め頼んで置けば、何でも取り扱う「便利屋さん」であった。 この合同汽船は、通勤・通学に毎日利用された。遠足・修学旅行や運動の対外試合 の足(中海周辺どこへでも・・・境・松江・米子・安来・大根島 etc ) になった。 そのころも合同汽船のことを、昔の名残か、”じょうき(蒸気)”と呼んでいた。 ヘルンが三回に渡り、来関した当時も既にこのように、境・松江からの定期便での物資 の輸送がさかんに行われていた。 「島屋という宿屋のかわいらしい給仕女に、 「アノネ、タマゴ ハ アリマスカ。」 女は観音 のようににこにこ笑いながら答えた。・・ 「ヘエ、アヒル ノ タマゴ ガ スコシ ゴザリマス。」 ところが、この宿屋には、アヒルは一羽もいない。これはそのはずだ。海ばかりで町では、 アヒルも生きる瀬はあるまい。みな境の港から持ってくるのである。 ヘルンは、卵が好物であったらしく、「美保神社と鶏の話」を知っていながら、面白がってこのよ うな質問をした。西田千太郎と一緒に避暑に訪れた、二回目の来関(明治25年8月25〜30日) で、西田は先に松江に帰ったあと、家鴨のたまご30個余りをヘルンに差し入れしている。 これは、西田とヘルンの間で「関の神様とたまごの経緯」が話題になり、西田が気を利かして の(半分ジョークのような)差し入れであろう。 当時の「美保関」は、交易帆船の寄港地として賑わい、「夜になると、美保の関は、西日本で 最もにぎやかな港になる。」と日本瞥見記のなかで紹介している。 その船乗り達の、船宿での宴をもてなす、芸者がたくさんいた。この芸者たちは置屋という所属 の宿で生活しながら仕事を務めでいた。 「しょこば」という芸妓に教養を仕込む場もあった。 これは、「女紅場」のことで、京都祇園から入ってきたらしい。  五本松節は、安来節、隠岐しげさ節、浜田節とともに、島根県の四大民謡に数えられてい る。近世から明治、大正にかけて全国的に歌われた作業歌「しょこばのお井戸」「千本搗き歌」 が本歌とされる。 三回目の来関の時、長男一雄を、松江中学の同僚の教師、浅井が一雄を芸者置屋の女たち に預けっぱなしにして八雲を狼狽させる。 といゆエピソードも日記に記載されている。 ( 一雄 1893年11月17日 午前一時誕生。明治26年。)  近くに住んでいた青年田中義平が、島屋へ碁を打ちに行っているうち、セツ夫人と親しくな {ここでは、島屋へ碁打ちに行ったと書いてあるが、島屋ではなく島屋の斜め向かいの成屋だったようである。} り、言葉を交わすようになる。しかし田中が姿を見せるとハーンの機嫌が悪くなる ので、来訪を断わったこともあったという。 田中はのち郡会議員になり、漁民救済の漁業会社を興した。その顕彰碑が中浦小路にある。 この顕彰碑には 永世不諼 島根懸知事 松永武吉 (16代知事 明治37年11月〜明治41年3月) とある。    エイセフケン (永代忘れることはない) ヘルンが松江から、避暑に美保関に来たというのも、既にこの当時「合同汽船」の前身の蒸気 定期船が、回航していたからである。 昭和40年代までは、近郊の地からの「美保神社信仰」参拝客の唯の一足として活躍した。 このように、美保関は明治から大正・昭和初期にかけて、他の地からの人で賑わい経済的に も潤ったと思われる。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃日本の実状を世界に伝えたパイオニア ┃ ┃ ペリーをはじめ日本を紹介した方は多いが、ほとんどの場合「批判的・低文化の劣国 …」な見方で紹介された ┃ ┃ ヘルンを東京帝国大学に紹介した言語学者チェンバレンもそうであった、 ┃ ┃ 「見知らぬ日本の面影」はチェンバレンに献呈されていたものの、チェンバレンは ┃ ┃ これを酷評する。その後国家神道や教育勅語など多くの問題について両者の論争は激し ┃ ┃  くなり訣別にいたる。 ┃ ┃ ┃ ┃ 現実問題は別として日本の文化をプラス指向で理解し伝えようとしたヘルンの業績には、尊敬の念を抱く。 ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 関の五本松、へるん先生の英訳 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃ Of the five pines of seki one has been cut, and four remain : ┃ ┃ and of these no one must be cut, ---they are wedded pains. ┃ ┃ ┃ ┃ 関の五本松 一本切りや四本 あとは切られぬ夫婦松 ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 根岸 啓二(小泉八雲旧居主)著 「出雲における小泉八雲」より
関田かおる 編著 『知られざるハーン絵入書簡』 序文より抜粋 http://www.yushodo.co.jp/ysdnews/hearn/loh/loh03.html 異国での第一歩 1890年(明治23)4月4日、ついに極東の日本に着いた。横浜に上陸し、ハーンは「日本へ の冬の旅」という第一報の通信文を送った。ところが、すでに40歳を迎えた有能な特派員の 記事が、同行の挿絵画家ウエルドンよりも報酬が低いことを知り、ハーンは即座に契約の破 棄を決意した。 上陸後すぐに、ハーンはビスランドからもらった紹介状を手に、横浜居 留地の「グランド・ホテル」にミッチェル・マクドナルドという人物を訪問した。前年11月 『コスモポリタン』誌の企画で世界一周の旅をしたビスランドは、一日だけ横浜に立ち寄り、 ルドと知り合っていたので、日本取材の旅に出るハーンに紹介状を書き与えていた。マクド マクドナナルドは、当時、米国海軍主計大佐で、「グランド・ホテル」の大株主でもあった。 この縁から、マクドナルドは終生変わらぬ友情をかわし、ハーンの良き相談相手になった。 さらに、日本行きを勧めてくれた友人の、ハーパー社の美術記者ウイリアム・H. パットン から帝国大学教授 B. H. チェンバレン宛の紹介状をもらっていたので、ハーンはさっそく チェンバレンに求職依頼の手紙を送った。しかも5年前、ニューオリンズの博覧会で出会っ た服部 一三が文部省の普通学務局長の職にあった。このような偶然が幸いし、チェンバレ ンと服部の尽力によって、ハーンは島根県の尋常中学校のお雇い英語教師になることができた。 松江・出雲にて -小泉セツとの愛 (ハーン40歳/セツ24歳) 赴任先の島根尋常中学校では、教頭・西田千太郎(26歳)の知遇を得、10月の島根県教育 会においてハーンが「教育の要素としての想像力の価値」を講演したとき、西田は喀血し て床に伏していた身を起こして通訳をつとめるなど、松江時代のハーンには、西田の公私 にわたる協力があった。ハーンも14歳年下の西田に全幅の信頼をよせ、真の友情を交わし た。日本海からの寒風が吹きすさぶ冬、暖房設備が火鉢しかない日本家屋の隙間風にさら され、ハーンは風邪をこじらせてしまった。病気の彼の世話をするために24歳の小泉セツ が選ばれ、彼女は住込みで「異人さん」の身の回りを世話した。親身になって病人を看病 する内に、二人は結ばれる。幼くして別れたギリシアの母親と日本女性の“母性愛”とが 、ハーンの心の中でひとつに重なった。 漂泊の旅のなかでもとめつづけてやまなかった「魂の故郷」。いま、ハーンはようやく定 住の地を見い出すことができた。松江や出雲の、西田を始めとする心暖かい人びととの交 流は、彼の日本研究の源泉になった。 しかし、山陰の冬の厳しい寒さは、カリブ海の熱帯性気候になじんでいたハーンをこの地 に長くとどめておくことができなかった。また、内縁関係になったセツにたいする世間の 冷ややかな目を避けるという配慮もあって、彼は新しい土地への転勤を望んだのかもしれ ない。 熊本にて-我が子との出会い-" 厳しい寒さは思考力が鈍り、執筆ができないと考えていた彼の悩みを聞き届けたチェンバ レンの斡旋により、彼は1891年(明治24)11月、熊本第五高等中学校へ転任した。元会津 藩士で漢文教師の秋月胤永との出会いを喜びながらも、日清戦争前夜の軍都・熊本は、さ きの西南の役(1877年)で焦土と化していたために、ハーンの興味を惹くような歴史的遺 物が少なかった。期待外れの感を抱いた彼は、学校の休みを利用して、長崎、博多、隠岐、 京都、奈良、神戸な どの旅に出かけては、作品の素材をもとめた。1893年(明治26)11月 17日、長男一雄が誕生混血児である赤ん坊の将来を考え、外国人居留地のある神戸で暮す ことにして、五高を退職した。 手取本町34 〜→ 外坪井西堀端町35へ転居 神戸にて -日本人、小泉八雲の誕生- 1894年(明治27)10月中旬、ハーンは神戸に移り、英字新聞『神戸クロニクル』の記者と なったが、身体的な理由で、わずか4か月で退社せざるをえなかった。定職を失うけれど も、チェンバレンに献呈した来日第一作『日本瞥見記』19894年刊)は好評で、彼は著作 活動だけで収入を得 られる自信を持った。 彼は久しぶりに手にした開放感にひたり、自由時間を気ままな読書と友人たちに手紙を書 くことにあて、ワトキン親父には日本の礼装をした自分の写真と妻セツや長男一雄の写真 を送って近況を知らせた。1895年(明治28)4月17日、日清戦争が終結し、在日外国人た ちに認められていた特権が条約改正で廃止されることを感じたハーンは、家族の財産権を 守るために、日本国籍をとる決意をする。翌年の1896年(明治29)2月10日、ようやく帰 化が認可されて、ラフカディオ・ハーンは小泉家に入籍して、“小泉八雲”となった。 下山手通4丁目7、下山手通り6丁目26、中山手通17
「神社紀行(美保神社)より」 (学研出版,全国の神社シリーズ誌) 松江を拠点地として、八雲は美保神社や出雲大社など各地を訪れている。郵便船を利用し た旅だった。  この小綺麗な宿屋は美保関の三日月状の町並みの一方の端、そのほとんど突端のところに 位置する。その二階からは湾内が見下ろせる。 美保神社は一方の端あるので、神社にお詣りするためには町を端から端まで歩いて抜ける か、港を舟で横切らねばならない。しかしこの町はくまなく見物するに値する。なにしろ 一方は海で他方は山の麓がぎゅうっと迫ってひどくせせこましいので、通りの余地は本当 に一筋分しかない。 しかも道幅の狭さといったら、海寄りの家の二階から向かいの山寄りの家の二階へひょい と飛んで渡ることが出来そうなほどである。そしてその通りが狭いだけにすこぶる画趣に 富む。簾も、磨き込んだ縁側も、風にはためく暖簾もさながら絵のようである。 (講談社学術文庫「神々の国の首都」)  小泉八雲は、海に入りたいという気持ちに抗しがたく、美保神社参詣前に「深さ十二尺 の澄んだ海に飛び込んだ」と書いている。 小綺麗な宿とは「島屋」のことで、現在もその跡が残っている。 八雲は、「美保関は昼間は眠っているようで静かだが夜は西日本でもっとも喧しく賑やか な小さな港町のひとつ」と驚いている。 当時美保関は風待ち港として栄え、夜、芸者の三味線に歌い踊る船乗りの豪遊ぶりを八雲は紹 介している。
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ラフカディオ・ハーン書簡 チェンバレン宛 日本瞥見記 第十章 五     『日本瞥見記』平井呈一<訳>                           【戻る】